黄金井酒造の歴史

黄金井酒造の歴史は、江戸時代に遡ります。江戸時代後期の文政元年(1818年)相模の國 玉川村七澤の現在の蔵元に於いて、造り酒屋を営みだし、創業200余年の歴史を刻んできました。
当時は江戸幕府で最も将軍在位の長い第 11代征夷大将軍 徳川家斉(いえなり)の時代であり、文政元年(1818年)は伊能忠敬が日本地図の完成を目前に没した年であり、奇しくも伊能忠敬の生家は造り酒屋であったとのことです。


初代~第四代

三代目当主 弥太郎の肖像画

四代目当主 伝四郎

初代当主 黄金井伝四郎(初代)は、豆腐屋の倅に生まれ世のためになる商売をしたい一念で、濁酒屋を小さく始めたのが今の酒造りの起源です、井戸を掘り地下水を汲み上げ仕込水として、造り酒屋を興しました。その蔵元の地下水は今も滾々と湧き出て現在も醸造に使われています。その後、“伝四郎”の名は2代目、4代目が襲名し、3代目は“弥太郎”を名乗りました。黄金井家の基礎を成す中興先祖の4代目伝四郎は、銅像に刻まれ現在も会社に祭られています。
当時の酒造りは、地場で収穫された米を使い、蔵元の地下水で醸した自然の醸造酒でした。そこで、現在でも大吟醸酒や淡麗で辛口の酒以外に、歴史を感じさせる昔ながらの製造により近い醸造や蒸留で、造り酒屋本来の味わいを生かした商品開発にも力を入れてきました。平成18年(2006年)より、地元厚木で収穫された地場産の飯米“キヌヒカリ”を使い、蔵元の地下水で醸造した純米酒を創業者“伝四郎”に因み「純米酒 伝四郎」の酒名で、また同じく、地元厚木で収穫された地場産の飯米“キヌヒカリ”と蔵元の地下水で醸造・蒸留した米焼酎を 3代目当主“弥太郎”に因み「米焼酎 弥太郎」の酒名で製造しています。何れも昔懐かしい味わいのある酒です。現在は、神奈川の推奨品種として普及している厚木産の飯米“はるみ”を原料米として使用し、旨味とまろやかさが増しています。

今も滾々と湧き出る井戸水

今も祭られている銅像

明治時代の酒蔵

現在 同じ場所で撮影

第5代

五代目当主 為造

五代目当主黄金井為造は、明治43年(1910年)より衆議院議員を務め、実業家としてまた政治家としても酒類行政に大きく貢献しました。為造は、明治44年(1911年)の第4回全國酒造家大會より神奈川県代表として参加し、大正3年(1914年)5月10日の第7回全國酒造家大會で副会長に就任、当時混乱期にあった酒造業界を現在の日本酒造組合中央会に移行し円滑に運営されるまでの基礎を作り、昭和3年(1928年)5月10日、日本酒造組合聯合会 会長に就任しました。翌昭和4年(1929年)5月12日、日本酒造組合中央会を設立し初代会長に就任し、昭和9年(1934年)10月14日に没するまで会長職を務めました。
明治時代には、お酒はアルコール飲料としてばかりでなく、地租に次ぐ主要財源として大いに国家の財源確保に寄与していました。日清戦争後の国家財政を賄う増税の中で、酒税は大幅に増徴され、明治32年(1899年)には地租を抜いて国税収入の第一位となり、その後も第1次世界大戦後の数年間を除き、昭和10年以降所得税にその地位を明け渡すまで、国家収入の第一位を保ち続けました。 この間、国家財源として増税される酒税の負担は酒造家にとり重いものでしたが 、為造はこの酒造家への酒税負担の軽減化に尽力しました。当時は杉の木桶で仕込や貯蔵が行なわれ、酒税も現在と異なる製造石数による造石税で課税されていました。(現在はタンク仕込みで出荷数量に合わせての課税が行われています。)清酒の貯蔵容器である木桶が、 2~3%の清酒を吸ってしまい自然欠減を生じますが、この桶が吸ってしまう自然欠減分にも酒税が課せられていました。為造はこの貯蔵期間中に生じる自然欠減分を造石税から減免するよう政府に要求し、時の大蔵大臣(今の財務大臣)に直訴し、大正7年(1918年)3月23日に滓引減量及貯蔵減量を清酒で査定石数の5%控除、味醂で滓引減量査定石数の2%控除、後に大正9年(1920年)には焼酎の貯蔵減量査定石数の1%控除が認められました。後の大正11年(1922年)4月1日には更にこの控除率を清酒で7%、味醂で3%、焼酎で2%にまで高めたことは全国の造り酒屋にとり大変な助けとなりました。当時、為造は「自分は酒屋を造る酒屋だ」と公言しており、この功績が称えられ、お酒の神様として名高い京都嵐山の松尾大社に昭和4年(1929年)5月11日等身大の銅像が造立され祭られました。その後の太平洋戦争でこの銅像は軍事材料に供出され、現在では阪急嵐山線 松尾駅正面に当時の台石の上に大きな御影石製の御神酒徳利として、神酒器モニュメントと称され祭られています。

戦 前

松尾大社に銅像として造立されました。

現 在

松尾大社入り口に御神酒徳利として祭られています。

また、為造は実業家としても、いち早く新しいものを取り入れました。明治 44年(1911年) には蔵元裏の玉川を堰き止め、玉川の水を利用した当時世界最小の「自家水力発電所」を造りました。この電力は、自宅や蔵の電灯、電熱、その他農業畜産・醸造用電力として使われました。一方、近隣の農民のための勉強会「耕牧会」を興し、アメリカから乳牛を輸入して酪農を実践し製酪所を建て、当時珍しかったバターやチーズも造りました。
これらの先駆的な農業畜産部門の開拓により、神奈川県知事より「神奈川農業長」を任命され、県内の農業畜産振興に寄与し、現在の都市農業の基盤になっています。

世界最小の発電所を建設

製酪所を建設

六代目

六代目当主 英一
六代目黄金井英一は 日本酒造組合中央会監事 神奈川県酒造組合会長を歴任し、昭和18年(1943年)太平洋戦争中の企業整備で酒造業の削減に当たり、神奈川県の造り酒屋を47場から22場に整備削減し、その後の統制に努力しました。 当時までは、酒名は「小金井櫻」で出荷されており、蔵の中庭に樹齢100年以上の大きな桜の木がありました。現在は、蔵元北側の外周を囲むように桜の木が植えられており、毎年桜の季節には桜並木がきれいです。戦後になり、益々繁盛するの意を込めて、主力清酒名を「盛升」に改めました。

小金井櫻のラベル

現在、蔵元北側の桜並木

戦後の黄金井酒造

手前の建物、奥の蔵は現在も活躍しています

七代目

七代目当主 一太
七代目黄金井一太は、神流川県酒造組合 副会長として酒造業に携わる傍ら、地元経済の活性化に情熱を傾け、永年に亘り厚木商工会議所 会頭や(公財) 全国法人会総連合 副会長等の要職を務め、地域経済の発展に尽力しました。

また、ベンチャー精神が旺盛で、新規産業や醸造技術をいち早く取り入れました。昭和50年代の第1次焼酎ブームには、酒粕乾燥蒸留焼酎の製造、平成に入り、越後杜氏から自社製造部への移行を行い、年間での酒類製造を可能とし、地ビール事業に参入し、ビール、発泡酒、米焼酎、リキュール(梅酒、ゆず酒、かぼす酒)の製造を開始しました。

焼酎蔵

奥 昭和57年に導入の粕乾燥蒸留機

手前 米や芋等の蒸留機

ビール蔵

 

1998年にビール醸造の為に新設現在、発泡酒を含め、7~8種類を製造しています。

八代目

八代目当主 康巳
八代目(現社長)黄金井康巳は、現在 神奈川県酒造組合 会長(現職)、日本酒造組合中央会 理事、評議員(現職)として日本酒の需要振興に努め、「酒屋を造る酒屋」を公言していた曾祖父 為造の意志を継ぎ、特に神奈川県産日本酒の普及と消費拡大を図っています。 また、酒造業界の新規産業として創出された地ビール業界に於いて、パイオニアとして全国地ビール醸造者協議会 会長を務め、現在も監査役の傍ら「クラフトビール」の台頭に尽力しています。

更に、地元地域との連携を大切にし、地元の素材を使用した、Craft GINや本みりん、ミード(蜂蜜酒)等、数々の新たな酒類製造を進めています。
また、(公社)厚木法人会 会長(現職)、(公財)全国法人会総連合 監事(現職)、(一社)厚木市観光協会 副会長(現職)、七沢観光協会 会長(現職)を務め、地域連携と観光振興に寄与しています。
平成31年には観光ダム放流日本一の「宮ケ瀬ダム」の地下80mの監査廊内に蔵置場を設けて、「ダム貯蔵酒」の製造をおこない、東丹沢の広域観光での特産品開発にも情熱を傾けています。
更に、コロナ禍では消毒薬が不足する中、蓄積した醸造蒸留技術を駆使して、「高濃度エタノール」の製造を行い、社会貢献事業にも尽力しています。

クラフトジン黄金井

黄金の純米本みりん

蜂蜜酒 Mead